2012年08月15日

ハーブ&ドロシー

追悼 アーティストが見たシネマ

「ハーブ&ドロシー/アートの森の小さな巨人」 
監督;佐々木芽生(2008年)http://www.herbanddorothy.com/jp/

 「ハーブ&ドロシー」は見終わる後に幸せな気分にしてくれる映画だ。華やかなニューヨークのアートの世界には不釣り合いな老夫婦のアートコレクターを追ったドキュメンタリー。ハーブとドロシー・ヴォーゲル夫妻は独自の視点とスタイルでミニマリズム、コンセプチュアルアート以降の現代アートのコレクターとしてNYのアートシーンでは知る人ぞ知る存在だ。残念ながら旦那のハーブさんはこの7月22日(89歳)、この世を去りました。

 この映画では数多くのNY 拠点のアーティストたちが登場するが、私はその中の一人、冒頭に出てくるルチオ・ポッツィのアシスタントをしていたので、作品の受け渡しなどを通してヴォーゲル夫妻には何度もお会いしている。ヴォーゲル夫妻のアパートはマンハッタンのアッパーイーストサイドにある家賃統制の一般的なアパートで、決して大きいとは言えないが、その限られたスペースに現代アートの作品が所狭し飾ってある。飾りきれない作品はテーブルの上に無造作に積みあがられていたのでびっくりした。

 そう、ヴォーゲル夫妻はふつう誰もが想像するようなプール付きの家に住む、大金持ちのコレクターではない。旦那さんのハーブは元郵便局員、奥さんのドロシーは元図書館司書を勤め上げた公務員である。いたって質素な生活を営む二人だ。その二人が決めた美術作品収集のルールは、「自分たちの給料で買える値段であること」、「1LDKのアパートに収まるサイズであること」のふたつ。画廊や美術館に通い、積極的にアーティストたちの制作過程から興味を持つことで、膨大で質の高い現代アートのコレクションを実現したのだ。クリストやチャック・クロースなど多くの有名アーティストたちがヴォーゲル夫妻について語っているシーンは興味深い。

 ただひたすら自分たちの好きなものを集めるヴォーゲル夫妻の流儀は、価値の定まった投機目的や骨董収集とは根本的に異なっている。自分たち独自の評価の基準を持ち、そのゆるぎない作品収集への情熱そのものが価値を生み出しているように見える。開かれた感性で友達を招き入れるように作品を集める様子は幸福感に満ちている。集めに集めてその数なんと4000点超。ヴォーゲル・コレクションとして展覧会を開催するまでになっている。こうなるともはやコレクター=アーティストかもね?しかもそれらを売れば億万長者間違いなしなのだけれど、全部ワシントンのナショナル・ギャラリーに寄贈するというのだからさらにびっくりである!ナショナル・ギャラリーに運ぶために小さなアパートから出てくる作品の数々。魔法の小箱から宝物が湧いて出てくるみたいだった。

 しかし天下のナショナル・ギャラリーでさえ全部は受け入れきれない状態で、全米各地の美術館に分配されるプロジェクトが立ち上がったとのこと。その続きは次回作{ハーブ&ドロシー50×50}へ続きます。何とも愛らしい小柄な老夫婦がマンハッタンの街角を行き交うシーンはジンときます。いつまでも見ていたい風景です。
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2012年08月07日

福島の高校生による演劇を観て

 7月31日(火)、福島県立あさか開成高校(郡山市)演劇部の「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」の横浜公演(かなっくホール)を見てきた。高校生演劇ということもあり集客がちょっと心配だったが、ほぼ満席。よかった。

 この演劇が作られる発端となったのは、2011年福島で行われる福島総文祭で上映予定だった「ほんとの空」という構成劇が東日本大震災、福島第一原発事故の影響で上演できなくなったことからだった。

 3.11以降、智恵子が呼んだ「ほんとの空」を感じることができなくなった現実を前に、演劇を通して生徒たちは自分たちの苦悩や生の声を紡ぎだす即興劇を繰り返した。それらを一つの作品に昇華させたものが
「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」という題名の作品に結実したのである。

シンプルな箱型の舞台セット。ピーピーと線量計の鳴る音や放射能の影響で締め切られたガラス窓を開ける音が、生徒たちが置かれている状況の異常さを照らし出します。故郷を去る者、残るもの。避難する側、受け入れる側。さまざまな立場や感情が錯綜する中、生徒たちが自分の言葉を発する過程そのものがこの作品の血肉となり結晶化されて行くのだ。そして彼らの声が観るものの心に突き刺さる。

 生徒たちにとっては自分たちの演劇が評価され、発表する機会を得られたことは嬉しいことであると同時に、つらい思いを追体験するのはしんどい作業であろう。しかし彼らの物語を伝えたいという気持ちから発せられる彼らの言葉は、観客の心に直接響いてくるものだった。

 彼ら(若者)の声に我々はしっかりと耳を傾けなければならないと思う。そしてまだまだ成長するのであろうこの演劇が、一人でも多くの人々に見られることを願って止まない。
タグ:演劇 芸術
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奈良美智展 「君や僕にちょっと似ている」を見て

日本の現代アーティストの中でも、村上隆と並んで人気が高い奈良美智の個展が9月23日(日)まで横浜美術館で開催されている。脱原発デモでも使われている“きかん気顔の女の子”のイメージが巨大な頭部の立体や様々な支持体(繊細な色合いの絵画や、段ボールや板きれなど)の平面作品として展開されている。特に淡い色みの絵画作品は、女の子のイメージに囚われずに充実した絵画平面として見るだけでも満足感が味わえる。それにしてもこの女の子のイメージは作家本人のオルターエゴなのだろうか。それとも「僕と君にちょっと似ている」という副題から読み取れるように、人間のある感情表現のプロトタイプなのだろうか?

 考えてみれば最近の日本のアートではキャラクターデザインは一種のトレンドだ。独自のキャラクターをあみ出そうとして頑張っている若手作家の作品をギャラリーなどでもよく見かける。アートの大衆化、エンターテイメント化が進み、今日の消費社会の申し子的位置づけのキャラクターデザインがアートへの影響力を強めるのは不思議なことではない。キャラクター創りによる作家自身のブランド化という側面もあるだろうし、それ自体が作品制作へのモチベーションとなっているようでもある。とどのつまり偶像破壊が前衛アートの規範であった時代が終わり、新しい神々のイメージは「君と僕にちょっと似ている」神々なのかも知れない。

 今回で横浜美術展での奈良美智展は2回目ということだが、同じ美術館で一人のアーティストが個展を2度やるというのはある意味驚きである。集客こそすべてになりつつある文化行政の苦肉の策なのか?文化は「育てるもの」という観点から考えると、多種多様なアーティストたちが多種多様な表現に取り組める環境の創造が望ましい。美術館の一か所を非商業的アートなども紹介する実験的なスペースにするなど、新しい取り組みを期待したい。
奈良美智.jpg
タグ:アート 芸術
posted by ミツオ at 00:00| Comment(0) | アート